第1回 マジョリティのうろたえ、抵抗、罪悪感

「俺だってしんどいんだよ」

 「男性問題」と呼ばれる社会課題にコミットするようになって10年が経った。私は男性学の研究者として、男性が男性であるがゆえに抱える困難や課題を明らかにし、また心理臨床の実践家として、課題を抱える男性たちにダイレクトにアプローチしてきた。現在は一般社団法人UNLEARNという組織で、数名のメンバーと共に、研究と実践を架橋するようなプロジェクトを進めている。

 ジェンダーにかんする課題のうち、男性性に関わる領域を扱う人は少なく、ありがたいことに、いくつかの自治体や企業から講座やワークショップの講師依頼を受けている。男性を対象にした脱暴力のサポートを行っていることもあって、DVやハラスメント、もう少し広く女性差別のことに関して、男性学の立場からレクチャーをしてほしいという相談があるのだ。

 日本社会にはいまだ様々な女性差別が存在する。それは、企業の管理職や政治家の女性比率の低さ、DVや性暴力といった加害行為を受ける割合の相対的な高さなど、目に見えるデータで示されるものもあれば、家事・育児・介護といったケア労働を強いられることや、組織やコミュニティの中で見下されることなど、見えづらい形で現れるものもある。

 この連載でも触れるが、当然男性でも様々な抑圧を受けることはある。しかし上記のようなことを「男性だから」という理由で男性たちが被ることは少ない。そこにはジェンダーを軸とした非対称があり、男性たちは女性が日常的に受ける抑圧や排除を免れていると言っていいだろう。

 またこうした非対称が、私たち男性の意識の中に入り込むことがある。「女性は感情的だ」と女性たちを一面的に見なしてしまう、「子育ては母親の仕事」という暗黙の了解のもと子育てに十分にコミットしないなど、男性たちの考え方やふるまいに対して、ジェンダー規範が影響を与えてしまう場合があるのだ。それは下手をすれば、ハラスメントやDVへと接近していくことさえある…。

 引き受けた講座でそんな話をしていると、次第に会場の空気が張り詰めていくのに気づく。男性向けの講座ならなおさらだ。前に座っている受講者の男性の眉間の皺が、次第に深くなっていく。なんなら反発心さえ抱いている、そんな緊張感がビシビシ伝わってくるのだ。ハラスメントをテーマにした講座では、「なぜ自衛もできない弱い人間を自分が配慮する必要があるのか」「俺だってしんどいんだよ」と言い放って途中で帰ってしまった男性もいた。

 1910年代に第一波フェミニズムが興り、女性差別に反対する女性たちが現れたのと同時に、そうした声に拒否感を示す男性たちも常に存在し続けてきた。「物言う女性」を冷やかし、女性の解放を謳うウーマンリブの活動家たちを「ブスの僻み」とからかい、フェミニズムは過激だとしてその主張を弱体化させる。2000年代に日本で起きたバックラッシュの波はその典型だろう。女性たちの声を聞き届けるのではなく、むしろ拒否し黙らせるような動きが展開され続けてきたのだ。

マジョリティの〈抵抗〉

 ここまで書いてきて、「本当にこういう男ってどうしようもないな…」とつぶやきたい気持ちがむくむくと湧いてくる。ジェンダー平等を目指す動きに乗ることができない、むしろ後退させるような男性たちを、冷笑したくなる自分がいるのだ。
 ただ、それは「彼らと違って自分は進歩的な男性である」とアピールする、ポジション取りのような態度でしかないと思い直す。私は以前、『あなたはフツウと違うから 切り離しのマジョリティ論』という連載で、こうした差異化の欲望と動態を〈切り離し〉と名付けた。そう、私はつい〈切り離し〉をしたくなってしまうのだ。

 しかしそれはできない。かく言う私も、フェミニズムに出会ってから、窮屈で、追い詰められるような、そして時に反発したくなるような感覚にさらされてきたからだ。

 なぜ男というだけでそこまで言われないといけない? 誰かを傷つけようと思ったことなど一度もない。にもかかわらず、なぜ自分の思考や意識が差別的だとされるのか? 子どもの頃から親しんできた『ドラえもん』の一部描写も性暴力なんだって??

 男性が下駄を履いていると言われるが、そんな得をしたような感覚もない。会社員として働いていた頃、先輩の女性社員は定時で帰って、自分は遅くまで残業させられていた。男のほうがしんどいんじゃないのか? 学部時代に受けたジェンダー論の講義を、右から左へ聞き流していたし、それどころか「うるさいな」とさえ思っていた。

 フェミニズムは男性を責めているんじゃない、男性中心につくられている社会の構造を問題視しているんだ、と言われることもある。たとえそうだとしても、その構造を当たり前として生きてきたのだから、自分そのものを批判されているように思えてならない。どうしてもどこか責められているような気がする。いたたまれない。直接的に「あなたは男性として特権を持っている」「下駄を履いている」と言われた日には、激しく動揺して、頭がうまく回らなくなる。やめてくれ、と声を上げたくなる…。

 ジェンダーの問題を学ぶ過程は、うろたえ続ける日々でもあった。実際に反発するような行為をとったこともある。だから、私は冒頭で書いたような男性たちを笑うことなどできないのだ。

 こうした男性たちの防衛的な反応は別に「男性」だけに限ったことではない。マジョリティ研究の中では、〈抵抗〉と名付けられ、ジェンダーという軸だけではなく、セクシュアリティ、人種、民族、障害、階層などにおいて、マジョリティ側にいる人たちに生じると言われている。〈抵抗〉とは、誰もが差別されない社会に向かう動きに対する防衛的・反動的な心理と行動の一連のプロセスを意味し、それは時に差別を温存することがある。

 ちなみにマジョリティとは「多数派」という意味ではない。この社会の中で「標準」と位置付けられている社会集団のことを指す。身体障害を例にとって考えてみよう。現代日本では、いまだにエレベーターやスロープが設置されていない駅が少なくない。当然、その駅を車椅子ユーザーは自由に使うことができないわけだが、それはつまり「障害者は電車を使わない」という前提が存在していることを意味している。裏を返せば健常者を標準として駅が設計されているのだ。

 セクシュアリティを例にとっても同様の事象が存在する。近年裁判にもなっているが、現在の日本の婚姻制度では、同性同士が法的な結婚をすることはできない。それは「結婚とは異性愛の人々が行うもの」という前提があることを意味し、同性愛の当事者は制度から排除されているのだ。

 以上のようにハード面でもソフト面でも、私たちの生きる社会は一部の集団を標準として構成されており、そのせいで別の集団に所属する人たちにとっては使い勝手が悪いか、そもそも全く使えないものになっている。こうした非対称が強固に存在しており、標準とされる側の集団をマジョリティ集団、そこからはじかれた集団をマイノリティ集団という。そしてマイノリティ集団は、さまざまな差別を被る(何がマジョリティ/マイノリティに当たるのかは、以下の図を参照)。

 補足をしておくと、世界の人口のうち、ここからここまでがマジョリティの人たち、それ以外がマイノリティの人たちというように明確に境界線を引くことはできない。例えば、富裕層の家庭に育ち、大人になってからも安定した生活を送っているものの、同性愛差別を受けるゲイの男性の場合、ジェンダー、経済状況で言うならマジョリティ、性的指向で言うならマイノリティということになる。日本人として健康的に過ごしつつもなかなか安定した収入を得られない女性の場合、国籍や障害の軸ではマジョリティ、経済状況やジェンダーの軸ではマイノリティということになる。私たちは様々な社会的属性の束で構成され、誰しもがマジョリティ性とマイノリティ性を有しているのだ。

 だから、その人がマジョリティなのかマイノリティなのかというのは、その時どの社会的属性に着目するかに依存する。そして、ジェンダーの問題が取り上げられた時に、マジョリティである男性たちが〈抵抗〉を起こすように、経済状況の問題では中間層以上の人たちが、性的指向の軸では異性愛者たちが、性自認に関する軸ではシスジェンダーの人たちが、日本の民族問題においては日本人や和人が、〈抵抗〉を起こすのだ。

白人の脆弱性ホワイト・フラジリティ

 マジョリティの〈抵抗〉については、アメリカの白人研究がかなり先んじた分析を進めている。中でも、人種差別の問題に向き合った時の白人たちの脆さについて、白人(マジョリティ)の立場から考察したDiAngeloの『ホワイト・フラジリティ』は大変示唆に富む。一部を引いてみよう。

 深く内面化された優越感に慣らされてしまった私たちは、レイシズムについて話し合うとき、ひどく脆くなる。人種をめぐる世界観を問われることは、自分が善良で道徳的な人間かどうかを問われることと同じだと考えるのだ。したがって、人種差別的な組織と結びつけられそうになると、倫理観を不当に侵害されたと感じて動揺してしまう。人種をめぐるほんの些細なストレスにすら耐えられないし、白人性ホワイトネスの意味を示唆されるだけで、様々な自己防衛反応が起きる。怒り、恐れ、罪悪感といった感情や、論争、沈黙、そして、ストレスの起きる状況からの撤退といった行動が、そうした反応である。これらは、挑戦をはねのけ、白人としての快適さを取り戻し、人種ヒエラルキーの中で優位性を保つことによって、白人の心の平静さを取り戻そうとする反応なのだ。このプロセスを私は「白人の心の脆さホワイト・フラジリティ」と概念化した。白人の心の脆さとは困惑や不安によって誘発されるものだが、優越感と権利意識から生じたものなのだ。白人の心の脆さは、いわゆる弱さではない。実際、これは白人における人種上の支配と特権を守るための強力な手段なのだ。(DiAngelo 2018=2021: 14)

 私たちの多くが、普段自分のことを「善良な」人間だと考えている。しかし、差別の問題に出会い、さらに自分がマジョリティなのだと突きつけられた時、つまり、社会の中で優位な立場に立ち、無意識に差別に加担しうる側なのだと知らされた時、自己防衛反応が起きる。DiAngeloは、差別や偏見を指摘された時に白人たちが疎外感、侮辱された感覚、攻撃された感覚、恥をかかされた感覚、罪悪感といった心理的反応を抱くこと、そして、その感覚がいくつかの防衛的行動に発展することを指摘している。例えば、会話の場から立ち去って相手との関係を切ってしまう、「あなたの意見でしかない」「根も葉もない攻撃だ」「また人種を持ち出すのか」「あなたの言い方の方が問題だ」と言って口論する、「たった一度悪気ないことを言っただけだ」「そういうつもりではなかった」と差別があったことを否認する、「そんなことはもう知っている」「私だって苦しんできた」と言い逃れする、泣き始める、といった行動である(DiAngelo 2018=2021: 175-178)。

 とりわけ言い逃れの形として多いのが、「人種差別の意図はなかった」「自分は肌の色なんか気にしない」「人種に焦点を当てるから分断が起きる」という「カラーブラインドネス(人種的差異への盲目)」の形式である。

 世界にはいまだに人種差別(レイシズム)が深刻なレベルで存在する。有色人種であるという理由で、就職から排除され、日常的に見下され、暴力を受けることが往々にしてありうるのだ。にもかかわらず、それはもう解決したものと見なしたり、そもそも存在しないと主張したりすること、また自分には人種差別の意図はなかったと主張することを、カラーブラインドネスという。これはジェンダーの問題にも当てはまり、「男も女も関係ない、その人の能力次第」「男女差別はもう解決された」と言って女性差別の問題が無化されることは少なくない(これを「ジェンダーブラインドネス」という)。

 逆に人種的多様性を受け入れている体裁を取って言い逃れがなされることもある。「私には黒人の友人がいる」「私は多様性のある環境で働いている」「60年代のデモに参加したことがある」「私は外国に住んでいたことがあるからマイノリティの気持ちがわかる」など、自分がマイノリティと近い位置にいることを強調することによって、「だから差別をするはずがない」という正当化を導こうとする主張も少なくない。DiAngeloはこれを「カラーセレブレイト(称賛)」と皮肉っぽく名前をつけている。

 また泣き始めるという行為も、強い防衛力を兼ね備えている。とりわけDiAngeloが問題視するのが白人女性の涙である。人種差別をテーマとした議論の最中に、罪悪感を喚起されて白人女性が泣き始めたとする。すると、そこに意図があってもなくても、彼女が「涙を流せば即座に彼女にあらゆる目が注がれ、本来はレイシズムの改善に使われるべき時間とエネルギーと配慮が、全員に要求される」(DiAngelo 2018=2021: 197)。その涙が流れた瞬間、レイシズムの深刻さは霧消し、むしろ有色人種が彼女を傷つけたという図式が展開されてしまうのだ。涙は自然な反応ではなく、白人たちの防衛の形なのであり、涙が流されることは、強い政治的効果を持つと言えるだろう。

 繰り返しになるが、ここまで見てきた防衛反応は、白人だけに起きるわけではない。差異はあれど、こうした反応はマジョリティとされる属性(男性、日本人、和人、健常者、異性愛者、シスジェンダー、中産階級以上など)を持つ人々に発生する可能性がある。誰しもが、自分が差別に加担しているとは思いたくないし、どちらかといえば虐げられている側だと思いたい。そうした気持ちが、自分の立場性を見誤らせ、マイノリティたちの声を聞き届け、丁寧に応答することを阻害してしまうのだ。

マジョリティの立場を引き受けすぎる

 一方、自分がマジョリティであるということを引き受けすぎる場合もある。私は普段多くの男性たちから相談を受ける機会があるが、とりわけ若い世代で増えているのが、女性に対する自分の関わり方が加害になるのではないかという悩みである。

 勤務先で女性の部下に話しかけるとセクシュアルハラスメントになるのではないかという相談を受けることもあるが、上司-部下というわかりやすい上下関係になくとも、例えば大学の同期同士であったとしても、その不安はついて回る。特に、相手にアプローチしたり、告白をしたり、そもそも好意を向けることそのものが、相手を傷つけるのではないかという危機感を抱いている男性が少なくないのだ。

 そこには間違いなくジェンダーへの意識がある。2017年に話題になったMe tooムーブメントを10代20代のうちに見てきた世代は特に、男性による女性への暴力にセンシティブな意識を持つようになった。ただ、そのセンシティビティが男性としての自分に対してまで降りかかってきて、「男性である自分は加害的な存在ではないか」「生来的に汚い生き物なのではないか」と否定的な自己像を抱いている人も少なくない。場合によっては、自分が幸せを感じてはいけないと自己犠牲的になったり、女性と関わることを避けてしまったりすることもある。

 それは、マジョリティとしての立場を認識して反省する、一見殊勝な姿勢のように見える。しかし、女性との関係を断ち、一人で自罰的になったとしても、社会状況そのものはあまり変わらないし、何よりその男性自身にとって不健康だ。

 かくいう私もこうした自己認識に苦しんでいた時期があった。どこか「男性として」生きていることに罪悪感があった。

 こんなことがあった。大学院生の頃、「ジェンダーに関わる研究をしているんだ」と久しぶりに会った女友達に話すと、彼女がおもむろに過去に受けた性被害について語り始めた。そうした問題に理解があるからと思って話してくれたのかもしれない。しかしあまりに突然のことで、私はどういう面持ちで聞いていいのかわからなくなった。何か応答しなくてはならないと思ったが、うまく言葉が出てこなかった。許せないことだと思った。しかし、加害者と同じ「男性」である自分がどんなことを言えばいいのか…。

 結局私は「同じ男性として申し訳ない…」と、言葉を絞り出した。そう口にしながら、どこかちぐはぐな感じがしていた。どこか身の丈にあっていないというか、ピントのずれた応答のように感じた。でも、つい、そう応えたくなってしまったのだ。

 ポカンとした彼女からは、「いや、あんたがやったわけじゃないんやから」という言葉が返ってきた。

 今思い返せば、「それはひどいな」「つらかったね」と、彼女の友人として素直に答えればよかったと思う。それができなかったのは、私がその瞬間、目の前の相手にどう応答するかではなく、「男性として」どう立場表明するかということばかり考えていたからだ。まるで全世界の性差別の問題を、全て自分で引き受けるかのような、そんなメンタリティに陥っていたように思う。それは言ってみれば傲慢な態度だし、目の前の相手との関係性をないがしろにするという点でも問題含みだった。

 私たちはこのマジョリティの自己処罰的な檻の中から出て行かないといけない。自分のためにも。相手にきちんと応答するためにも。

「この〈うろたえ〉はどこからきているのか?」という問いへ

 マジョリティが〈抵抗〉を起こすことと、マジョリティである自分に過度な罪悪感を抱くこと。ここまで、マイノリティと相対した時に生じるマジョリティの二つの反応を見てきた。私は、この二つの反応は一見正反対の現象のように見えて、実のところ地続きなのではないかと思っている。実際、私は性差別の問題を学ぶ中で、どちらの反応も経験した。

 相対的に優遇されている社会集団に自分が所属していて、差別の構造に加担しているかもしれないと知った時、私たちは少なからずうろたえてしまう。それは当たり前の日常が揺れる体験であり、自分のアイデンティティが危機にさらされる体験でもある。それが「なぜ責められないといけないんだ」「自分だってしんどい」「マイノリティにだって問題がある」と、相手を黙らせるような方向に進んだ時、それは〈抵抗〉となり、「マジョリティとして生まれてきたこと自体悪なんだ…」と自己否定に進んだ時、過度な罪悪感へと発展していく。両者とも、マジョリティ性への自覚を経過する際にどうしようもなく発生する、〈うろたえ〉の感覚を発生源としているのだ。そしてどちらの方向とも問題を含んでいる。

 〈うろたえ〉が避けられない事象なのだとしたら、そうした感覚を抱くこと自体を責めてもあまり意味がないだろう。もちろんマイノリティの側から見れば、自分の特権や差別への加担可能性に気付いて戸惑うマジョリティに対して、「何を今さら…」と苛立つかもしれない。しかし、突如生起した不安や恐怖や戸惑いを抑え込んだり、なかったことにしたりするのは難しい。

 重要なのは、その感覚を〈抵抗〉にも、過度な罪悪感にも転化させず、全く別のルートに進むためのきっかけにすることだ。DiAngelo(2018=2021)によれば、防衛的な感情は、白人たちが自身の立場性を問い直し、人種差別について知識を深め、その歪な社会構造を変化させていくための入り口になるのだという。

 「なぜ自分が責められるんだ」という感情を、いったんカギカッコに入れて、ではなぜそんな戸惑いや不安や怒りが生じるのか、マイノリティの人たちは何を訴えているのか、自分の社会的属性はどんな社会的影響を持っているのかについて、丁寧に探ってみる。〈うろたえ〉の感覚を入り口にしながら自己探究を進めていく、そんなルートがマジョリティには残されているのではないだろうか。

 昨今、政治的に正しくあることがある種の規範のように作動し、うんざりしている人も出てきているように思う。もう面倒くさくなって、「はいはい、マジョリティに生まれてきてすみません」と投げやりになっているかもしれない。しかし、差別の問題に向き合うことは「正しい」から行われるものではない。私たちがマイノリティ性を持つ他者と関わっていくために、必要なことなのだ。

 本連載では、マイノリティの人たちと関わる際に、マジョリティが他罰にも自罰にも至らない、そんな隘路を提示してみたい。第2回ではマジョリティの〈抵抗〉について、第3回ではマジョリティの謝罪、第4回は立場を引き受けすぎる問題について掘り下げていく。そして、第5回では、まとめとしてマジョリティが差別の問題にどう向き合えるのか、一つの方針を示したい。

 ぜひ皆さんも自身の〈うろたえ〉を思い起こし、そして「この〈うろたえ〉はどこからきている?」と自問しながら読んでみてほしい。

【引用文献】
DiAngelo, Robin, 2018, WHITE FRAGILITY, Beacon Press.(貴堂嘉之監訳・上田勢子訳, 2021,『ホワイト・フラジリティ−私たちはなぜレイシズムに向き合えないのか』明石書店.)


著者プロフィール

西井 開
(にしい かい)

1989年、大阪府生まれ。一般社団法人UNLEARN理事。立教大学大学院社会デザイン研究科特任准教授。専門は臨床社会学、男性・マジョリティ研究。臨床心理士。男性を対象とした臨床実践に携わりながら、ミクロな視点からジェンダー問題に取り組む。現在のテーマはDV・ハラスメント領域での加害者臨床。著書に『「非モテ」からはじめる男性学』(集英社)、『転落男性論――孤立、暴力、ホモソーシャル』(金剛出版)がある。

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