最終回 「移動の自由」とは、どういうことか――不運から不正義へ

移動の自由と関係的な自由

 本連載では、より速く、より遠く、より快適に、といった現代社会で支配的な移動の思考から漏れ落ちてしまいがちな自由、権利、不平等について、さまざまな種類の移動を取り上げながら、具体的に移動の自由が脅かされる瞬間や、不平等が生じる場面を考えてきた。

 移動の自由とは一体何であるのか、それを阻む障壁をどうすれば乗り越えられるのか。そうした思索を通じて改めて思い知ったのは、このテーマがいかに奥深く、複雑で、まるで迷路のようなものであるかということである。

 今という時代を生きる私たちは、移動という主題から決して目を背けることができない。対象を変えて別のほうを向いても、いつの間にか再び目の前に移動が現れてくる。社会の前提として、移動がある。本のタイトル風にいえば、「世界は移動でできている」といった感じ。

 社会学者のゲオルグ・ジンメルは、社会を個人の集合や制度の総体としてではなく、人びとの関係として見つめた。社会のなかに関係があるのではなく、関係それ自体が社会であると。

 考えてみれば、移動も同じなのかもしれない。単純化すると、AとBという二つの点を行き来する物理的・空間的運動にたどり着く。移動によってAとBに何らかの関係が生まれ、AとBの関係が書き換えられる。同時に、移動のあり方自体も、社会的、政治的、経済的な環境との関係によって変化し、規定される。

 移動とは関係である。移動の自由とは、私一人でどうにかなるものではなく、他者との関係のなかにある自由なのだ。移動と不動は、常にコインのように表裏一体の関係にある。誰かが移動しているとき、その移動を支えるために、別の誰かが不動化されていたりする。連載を通じて、移動の自由が、別の人の移動の制約の上に成り立つ場面を何度もみてきた。第2回で、「主体的な移動こそ素晴らしい」という風潮へのもやもやを綴ったわけだが、その理由がここにきてようやくわかった気がする。移動をめぐる主体性や自発性を過度に強調する言説は、移動の自由が関係的な自由[1]であることを見落としているのだ。

誰にとっての自由なのか

 移動の自由が関係的な自由であるということは、移動の自由が中立的なものではないということでもある。他者との関係のなかで成立する以上、その自由は、社会のなかにすでに存在する役割分業や規範、制度、資源配分、権力関係から切り離せない。

 このように考えると、本連載の副題である「ジェンダー」も、改めて意味を帯びてくる。ジェンダーを通して移動を見つめることで浮かび上がってきたのは、移動を取り巻く仕組みや制度、認識、言説、表象などが、いったい誰を「標準的な利用者」もしくは「理想的な移動者」として想定し、つくられているのか、その背後にどのような権力関係があるのかを問うことの大切さだった。

 第3回で、電動アシスト自転車の普及を糸口に論を展開した。電動アシスト自転車は、移動の困難を抱える多くの人びとを救う革新的技術である一方で、「仕事と家庭をうまく両立するバランスが取れた、高いポテンシャルを持つ女性」像を理想に、ジェンダー不平等やワーク・ライフ・バランスの問題を「すべては本人の努力と自己最適化で解決できる」と意味づけるネオリベラル・フェミニズム的主体像を過剰に肯定しかねない危うさと常に隣り合わせにある。

 第4回で論じた、地方創生以降、頻繁に見聞きする「女性の流出」という言説と政策フレームも同様である。地方から外に出るというベクトルは同じなのに、男性の移動と女性の移動には異なる社会的な意味付けがなされ、とくに若年女性の移動は、人口の再生産や地域存続という政策課題と過剰に結びつけられ、「地域に残るべき人がいなくなる」として過度に政治化されてきた。

 新型コロナウイルス感染症の拡大以降、急速に普及したテレワークについて第6回で論じた。そこで明らかになったのは、移動の自由を拡大するテレワークは、ホワイトカラーで、相対的に規模の大きな企業で正規雇用されている人、とくに女性割合の低い情報通信業を中心に推進されている実態だった。テレワークの導入と拡大がはらむ既存の経済格差やジェンダー格差を固定化・再生産する側面は、ジェンダー中立な技術や制度などというものは幻想であることを突きつける。

「自由な個人が移動する」という前提を問い直す

 移動の自由は、非中立的であるため、誰もが同じように移動できる個人としていられるわけではない。

 本当は、「移動の自由は私のものであり、あなた自身のものなのだ」と言い切りたい。しかし、進んでは戻って、結論が出たと思ったらひっくり返して、を繰り返してきたのが本連載である。移動の自由は、個人だけに閉じた自由ではなく、関係的なものであることが明らかになったいま、「移動の自由は私のものだ」と簡単には言い切れないことに、私たちは気がついてしまった。

 とはいえ、自由な個人という考え方そのものを捨てればよいという話にもならない。私たちは他者との関係から完全に自由になることはできない。しかし、関係のなかにいるからという理由で、どこに住み、どこで働き、誰と生きるのかを自分で選ぶ可能性まで手放してよいはずはない。

 移動の自由が関係的な自由であることを認めたうえで、それでもなお、自分の人生を自分で決められる社会を目指し、つくっていくしかないだろう。

 近代の自由主義は、カントやJ・S・ミルらの思想に象徴される通り、人間を自ら判断し、自らの生き方を選択する主体として位置づけてきた。カントが自律を自由の核心に据え、ミルが一人ひとりが自らの生き方を選び、個性を発展させることを重視したように、「自分のことは自分で決める」という理念は、近代的な自由の礎となってきた。

 彼らは、今日的な意味での移動の自由を直接論じてはいない[2]。しかし、移動の自由は、こうした自由の延長線上に位置づけることができる。問題となるのは、近代的な自由そのものではなく、それを社会的・関係的条件から切り離された主体が一人で、個人的なものとして行使できると考えてしまうことにある。

 たとえば、移動の自由が形式上は万人に認められていたとしても、介護する親がいる人、子どもの送迎を担っている人、経済的な余裕がない人、交通手段を利用しにくい人では、その自由を実際に行使できる条件には差が生じる。

 移動の自由は、個人の内側にあらかじめ備わっているものではなく、社会的な関係や制度によって支えられたり、制約されたりしながら成立している。本連載が繰り返しみてきたのも、まさにこの点であった。人は社会的諸関係のなかで、動き、動かされ、動けなくなり、ときに誰かを動かしている。「自由な個人が移動する」という近代的な移動観を前提にするのではなく、そうした関係のなかから、あらためて自由そのものを見つめ直してみる必要があるのではないか。

 そうして問題は、個人の自由という問いから、その自由を可能にしたり妨げたりしている社会のあり方へと移っていく。移動の自由を、移動の自由としてのみ論じることも難しくなってきた。なぜなら、自由の有無という二元論ではなく、その自由を実際に行使できる条件が誰に、それがどのように配分され、誰の負担によって成り立ち、誰がそこから排除されているのかといった具体性を問う必要が出てくるからである。

 このとき、移動の自由は、「移動の正義」へと展開することになる。

自由から正義へ

 石油不安の時代における移動の在り方を考えた第9回でも登場した移動の正義(モビリティ・ジャスティス)について、もう一度簡単に振り返っておきたい。

 移動の正義とは、権力と不平等が移動の統治と管理にどのように作用し、人、資源、情報などの流れにおける不均等な移動と不動のパターンを形成するのかを考えるための包括的な概念である(Sheller, 2018: 14)。それは、移動と不動の配分そのものをめぐる正義であり、背景にある移動と不動を生み出す社会諸関係そのものを問い直す概念だともいえる。

 移動の正義の特徴は、射程の広さにある。それは、植民地主義、人種、障がい、国境、インフラ、気候変動、そしてジェンダーなどを横断する包括的なスコープとなる。この概念を体系的に論じた社会学者のミミ・シェラーは、移動の正義をより細かく、分配的正義、熟議的正義、手続的正義、修復的正義、そして認識的正義の複数の観点から捉えている(Sheller, 2018: 22–35)。

 なるほど。たしかに移動の正義という視点を導入することで、移動できる/できない、移動の自由がある/ないだけでなく、その自由を可能にする資源や制度、意思決定、知識、歴史的責任までが、具体的に視野に入ってくる。

 だが、もう一度だけ議論を大きく転じさせたい。もしも正義ではなく、「不正義」から移動の自由を考えたら、どんな光景が見えてくるのだろうか。

正義の前に、不正義を見る

 アメリカの政治思想家ジュディス・シュクラーは、著書『不正義とは何か』のなかで、正義について膨大な議論が積み重ねられてきたが、実は不正義については十分に考えられてこなかったのではないか、という重要な問題提起をしている(Shklar, 1990=2023)。

 一見、正義と不正義は相互に規定し合う対概念に思える。正義が実現されていない状態が不正義であり、何が正義なのかわかれば、逸脱したものを不正義と呼べばよい。ところがシュクラーによれば、ことはそう簡単ではない。なぜなら、理想的な正義の原理を定め、正義を起点に現実を評価するだけでは、日常生活で人びとが感じている「これは何かおかしい」「なぜ自分だけがこんな目に遭うのか」という怒りや悲しみ、失望といった個人的な不正義の感覚を見逃してしまうからだ。

 とくにシュクラーが着目したのが、不運(misfortune)と不正義(injustice)との境界である。ある人が被った移動をめぐる困難や苦痛、被害は、誰にもどうにもできなかった不運なのか、それとも防げたはずの不正義なのか。不運と不正義の境界は、自然に決まるものではない。しかし、技術や制度、知識、政治的イデオロギーが変化すれば、それまで仕方がないと考えられていたもの(不運)が、「回避可能な不正義」として理解されることもある(Shklar, 1990=2023: 110, 124-126)[3]。こう考えると、私たちが「仕方がない不運」として処理している移動の困難や不平等のなかにも、回避可能な不正義が少なくないことに気がつく。

 第5回で扱った、地方への消極的移住を思い返してみたい。そこには親から実家に戻るよう求められた女性や、家族のケガや病気、介護をきっかけに地元へ戻った女性、シングルになったことで都会を離れた女性たちの姿があった。統計上、彼女たちはUターン移住者であり、最終的に移動したのは、たしかに本人である。しかし、その移動のすべてを、本当に本人が自由に、主体的に選んだものとのみ理解していいのかと言えば、違うだろう。両親の高齢、家族の病気、都会で一人子育てをすることの経済的困難、地元に戻るほかないから、などそこには不可視化された事情がある。しかし、往々にしてそうした理由や選択は、人生のなかで偶然、降りかかってしまった不運として処理されるのである。

 だが、そもそも、なぜ地元に戻らなければケアを担えないのか。なぜ、その人が戻らなければならないのか。他の人ではダメなのか。別の支援や制度があれば、その人は住み続けたい場所に残れたかもしれない。こんな風に問うたとき、仕方がない家族の事情と思われていた移動は、単なる不運ではなく、ジェンダー化された役割期待や制度のあり方によって生じた不正義となる。本連載は、まさにそうした営み――不運として処理されてきたものを、不正義として捉え直す営み――を、全10回にわたって続けてきた。

 シュクラーと同じくアメリカの政治哲学者であるアイリス・マリオン・ヤングも、不正義を考えるうえで外せない論者である。シュクラーが不運と不正義の境界を問うたのに対して、ヤングは、正義・不正義を分配だけでなく、制度、分業、文化、抑圧や支配の構造から考える道を拓いた。著書『正義と差異の政治』では、正義を財や機会の分配の問題としてのみ捉える考え方を批判し、意思決定手続や分業制、文化、社会的な抑圧や支配など、容易には分配の論理に統合されない問題を捉える必要があると論じている(Young, 1990=2020: 55ほか)。

 なぜ、ある人は送迎する側になり、ある人は送迎される側になり、ある人は送迎に関わらない側になるのか。どうして、ある人の地理的・空間的な長距離移動はキャリアステップとして称賛されるのに、ある人の同距離の移動は流出として問題視されるのか。移動をめぐる不正義は、財やサービスの量だけでなく、そうした役割や規範、意味づけを生み出す社会の構造のなかにも存在している。

 では、こうした不正義は、なぜそもそも「不正義」として認識されないのだろうか。「実際わたしたちのほとんどは、おそらく、“これは正義だ”と言うよりも、“これは不公正であり不正義である”と言っていることのほうが多いはずである」にもかかわらず、である(大川, 2026: 50)。そこで参照したいのが、『認識的不正義』で知られる3人目の不正義の論者、哲学者ミランダ・フリッカーである。

なぜ不正義は認識されないのか

 フリッカーは、人が、自分の知識や経験について語り、それを理解する知識の主体として正当に扱われないという問題について論じた(Fricker, 2007=2023: 1)。彼女はそうした「認識的不正義」の代表的な形として、「証言的不正義(testimonial injustice)」と「解釈的不正義(hermeneutical injustice)」の二つを挙げている(Fricker, 2007=2023: 1–2)。

 証言的不正義とは、社会のなかで劣位に置かれた人びとが、その社会的アイデンティティに対する偏見のために、信用性を過小評価され、聞き手にその発言を信じてもらえないという現象である(榊原, 2024: 25)。

「男性が主に働いているんだから、ケアのための移動を女性が担うのは当然だ」

「子育てしているんだから、送迎が多いのは当たり前でしょ」

「地方で生まれ育って住んでいるんだから、交通が不便だろうと住み続けている自分が悪い」

「障がいのある人だけのために、特殊な要求をサポートしていたらキリがない」

 不正義を訴えても、こうした言葉を投げかけられる。現代日本社会では、半数以上の人が「移動の問題は自己責任である」と考えている(伊藤, 2025)。不正義の訴えを無効化するような言葉を向けてくるのは身近な人のこともあれば、同僚や上司、相談した先の行政担当者であることもある。偏見により、困難を信じてもらえないようなとき、そこに証言的不正義は立ち現れる。証言的不正義のもとでは、当事者の言葉に耳を傾けられる機会があるはずの周囲の人や、支援の可否を判断できる立場にある人が、声を聞くことなく、問題を調べる前に、当事者の「不運」や「わがまま」として片づけてしまう。その結果、当事者自身も、本来、怒りや悲しみを向けるべき社会や制度ではなく、自分自身を責めてしまうことになる。「みんな、同じように困っているのに、なんで私だけ他人のせいにしようとしていたんだろう」「制度のせいじゃなくて、自分のせいなのに」というように。

 もう一つの不正義である解釈的不正義についてもみてみよう。解釈的不正義とは、社会的に劣位に置かれた人びとが、これまでの経験を語り、その意味を社会で共有するための言葉や考え方をつくる活動に参加して、概念を発展させる機会を奪われてきたために、自らの経験を理解してそれを言語化するために必要な集合的な解釈資源が乏しい状態に取り残されてしまうことを指す(フリッカー, 2007=2023: 2; 榊原, 2024: 25)。噛み砕いて言えば、ある経験を理解し、説明するための言葉がないがために、当事者自身も経験をうまく理解できず、他の人に説明できないような状態を指す。

 第10回の交通空白と家族送迎負担の議論を思い出してみよう。交通空白地域では、朝は子どもを駅まで送り、夕方には迎えに行き、その後に塾や部活動の送迎をするといった移動パターンがよくみられる。あるいは、高齢の親の通院やデイサービス、買い物のための送迎かもしれない。実際に車を運転している時間だけをみれば、一日1、2時間程度であっても、送迎が朝夕に分散していれば、その人の一日の行動時間は細かく分断され、仕事を入れたり、休んだりすることになり、送迎以外の時間も結果的に左右され、制約を受ける。それにもかかわらず、従来の交通統計ではこうした移動の負担は見逃されてきた。

 多くの場合、移動のケアを担う当事者も、「家族だから送り迎えをするのは当然」「車を運転できる自分がやるしかない」と考え、自分が失っている時間や選択の自由を、社会的な問題として認識してはいない。長年、当たり前のこととして本人にも、社会的にも、政策的にも処理されてきた。そうした負担や不正義を「ケア・モビリティ」や「家族送迎負担」として概念化することには意味がある。名前を与えることで、従来は個人的な事情や家族内の役割として処理されていた移動の経験を、社会的に共有できる問題として考えやすくなる。言葉を与えるとは、これまで見えなかった経験について、それは本当に個人だけで引き受けるべきものなのかと、みんなで考えられるように営みなのである。

理想を描くことができなくても

 ここで一応断っておくと、移動の不正義(mobility injustice)という言葉は、別に私が新しくつくったものではない。シェラーも著書のなかでこの言葉をたびたび使っているし、シェラー自身も認識的正義にも言及し、交通や環境をめぐる意思決定において、専門家だけではなく地域住民の知識を認め、新たな知識を生み出す必要性を指摘している(Sheller, 2018: 33)。これまでの移動の正義論が、「不正義」をまったく見てこなかったわけではない。

 しかし、フリッカーやヤング、シュクラーの不正義論をあえて丁寧に経由することで、移動の正義とあわせて不正義を考えるべきであり、むしろ、こちらを先に考えるべきではないか、とさえ思えてくる。

 なぜある人の移動の経験は最初から意味ある経験として認められないのか。なぜ、当事者自身も、自分が経験している移動の困難を不正義として理解できないのか。そして、不利益や不平等を「不便」「不運」「自己責任」「地域差」「家庭の事情」と呼ぶことで、どのような問題が見えなくなっているのか。

 移動の不正義から考えようという提案は、移動の正義を単に反転させようということでも、まったく新しい種類の議論をしようという主張でもない。問いかけの順番を少し変えてみたらどうかと、提案したいのである。たとえば、こんな風に。

「公正な移動とはどのような状態なのか」と問う前に、まずは移動の不正義に着目して「いま、誰が、どのような移動をめぐる困難や苦痛を経験しているのか」と問う。

「移動の機会をどう公平に分配するべきか」と問う前に、移動の不正義の側面から「なぜその負担や不利益は、これまで不正義として認識されなかったのか」と問う。

 正義をめぐる議論は、ときに、どのような制度や社会が完全に正しいのかという規範的な正義の構想へと向かう。それ自体は、別に悪いことではない。しかし、アマルティア・センが『正義のアイデア』で奴隷制の廃止を例に挙げて論じたように、目の前の明白な不正義を取り除くために、完全に正義な社会とは何かについて人びとの意見が一致する必要はない(Sen, 2009: 21)。廃止すれば社会が完全に正義になるから、奴隷制を廃止するのではない。奴隷制それ自体が耐えがたい不正義だから、廃止しなければならないのである。

 移動についても同じである。理想的な「移動の正義」が実現された社会を完全に構想できなくても、いま目の前で起きている明らかな移動の不正義を一つずつ減らしていくことはできるはずだ。

不正義にどう応答するべきか

 ここで、不正義を減らすための「支援」についても考えておきたい。不正義を是正する実践をめぐっては、ときに「行政が解決の主体」「市民は声を上げる存在」というように、役割が固定化されて受止められがちである。また、行政や政治家が社会全体の正義を構想すべきで、民間の諸主体は構想を踏まえて個別の不正義に対応する、といったように、正義が役割分業的に語られることもある。しかし、行政は正義を、民間は個別の不正義を、といったように正義を固定的な役割分業によって語ることはできない。ただ確かなのは、どのような立場に置かれていたとしても、不正義を訴える人、支援を必要とする人の経験を受け止める積極性が、変わらず重要になるということだ。

 家族送迎負担を例にとるとわかりやすい。行政には、公共交通や福祉の観点から、送迎をめぐる制度を見直していく役割がある。しかし、制度の見直しは行政のみではできない。地域団体や交通事業者、地域住民だからこそ気がつくことのできる送迎をめぐる困りごとや障壁があり、そうして得られた経験や知識は、行政が制度や支援策を見直す際の重要な材料となる。制度や仕組みを変えることと、目の前や周囲の困難を認識することは、密接につながっている。

 人は、あらゆる問題の当事者になることはできない。だからこそ、見えていない事情や経験は、当事者から学ぶ必要がある。支援する側や、不正義の訴えを受け止める側が、知らないことは知らないと認めて、当事者の声や経験から学ぶことで、不正義の解消は始まる。つまり、当事者は不正義を訴え、支援を受ける人であると同時に、その支援のあり方を考えるために不可欠な知識を有する存在なのである。

 認識的不正義の是正をめぐる議論では、聞き手が自らの信用性判断に及ぼす偏見の影響を省み、それを修正しようとする個人レベルの取り組みと、組織や制度のあり方を変える取り組みは、二者択一ではなく、相互に補い合いうるものとされる(飯塚, 2024)。

 同じことは、当事者同士の自助にもいえる。当事者同士が集まり、それまで言葉にならなかった経験を共有し、互いに支え合うことには大きな意味がある。それは、これまで見えなかった不正義に名前を与え、新しい知識を生み出す営みである。ただし、ここまで付き合ってくれた読者には論を俟たないであろうが、あえて強調すると、当事者同士の取り組みに対して、「自分たちで解決できるんだったら、社会的な支援は後回しでよいよね」となってしまうなら、本末転倒だ。自助の強調が、問題を自己責任化することはあってはならないのである。

 目の前の不正義を訴える声に耳を傾け、そこで得た知識を制度や組織の見直しへとつなげる。制度を変えたあとにも、当事者の経験から、それが本当に不正義を減らしたのかを確かめていく。不正義の検討は、こうして、いま私たちが暮らす社会のどこに綻びや歪みが生じているのかを探すことから始まるのである。

「仕方がない」を疑うことから

 もう一つ重要なのが、その不正義に「誰が加担しているのか」という問題である。

 仮に、本連載でみてきたような移動をめぐる状況を、不正義がいたるところに存在する状態であると考えてみよう。このとき、その原因は、正義のルールを能動的に破ろうとする明確な加害者や、意図的に不利益を生み出す主体だけにあるのだろうか。

 おそらく、そうではない。

 シュクラーは、「受動的不正義 passive injustice」という概念を用いる。それは、自ら積極的に不正義をつくり出していなくても、目の前で起きている不正義に背を向けること、避けたり軽減したりできる被害に対して何もしないことによって、不正義に加担する可能性を意味する。この考え方に従えば、実際の被害者および被害者になりそうな人に背を向ける受動的な市民も、不正の総量に影響を与えてしまっているのである(シュクラー, 1990=2023: 75)[4]。

 移動の不正義には、明確な加害者がいるとは限らない。むしろ、問題なのは「そういうものだ」「仕方がない」と受け入れる無数の小さな判断の積み重ねかもしれない。一般的な正義の議論では、不正義を生み出す制度や権力、あるいは不正義に能動的に加担する者に目が向きやすい。それはもちろん重要だが、シュクラーが教えてくれるのは、それでは不十分だということである。私たちは、自分では悪いことはしていないと思いながら、どこかで不正義に受動的に加担してしまうことがある。

 結局、移動の自由が関係的であるのと同じように、移動の不正義もまた、関係的に生じるという話に戻ってきた。少し拍子抜けするような結論かもしれないが、こうして一つひとつ確かめながら前に進むことで、不正義を是正し、自由を広げていくために、何を問い直せばよいのか少しずつ見えてきた。

 移動について考えていると、結局、私たちがどのような社会を生きているのかという問いに戻ってくる。では、どのような社会を生きたいのか。そのことを考えるのが、移動の自由を考えるということなのだろう。同時に、社会のなかで、誰のどのような不正義を「仕方がない不運」として見過ごしているのかを問い直すことなのだとも思う。

 移動の自由を考えることは、「不運」を、「仕方がない」を疑うことから始まる。

注

[1] ポスト現象学には、「関係的自由」という似た概念がある。それは、「権力に対して意図的に一つの立場をとること」で、「能動的に権力に同行したり、権力を再構成したり」するような自由を意味するが(フェルベーク, 2015: 136; 馬場・呉, 2022:50)、本稿のそれとは異なる。

[2] 補足しておくと、カントは『永遠平和のために』のなかで、異質な他者の歓待をめぐり、他国を訪れた者が平和的に振る舞う限り、敵として扱われない「訪問の権利」を論じている(カント 1985)。直接的に移動の自由を論じているわけではないし、現代の移動の自由や開放国境論をそのままカントに帰するのは正確ではないが、移動の自由を成立させる諸条件について議論していたことは押さえておくべきだろう。

[3] シュクラ―が例として挙げるのが、女性であることや飢餓である。女性であることや飢餓は、もともとは不運であったが、私たちが自分たちの状況を変えたいと思うことによって、不正義になった。私たちは自然や歴史の産物であるが、それらの受動的な被害者であり続ける必要はない。私たちは全員、不運をひっくり返す努力をし、不運を不正義として理解し、そうした認識のもとで行動することができる存在である(Shklar, 1990=2023: 110, 126)。

[4] ヤングが、不正義が制度や分業、日常的実践を通じて構造的に生み出される点に目を向けたのに対して(Young, 2011=2022)、シュクラーの受動的不正義は、不正義を目の前にしながら防止や軽減に動かない側の責任に焦点を当てた。

参考文献

馬場大樹・呉文慧,2022,「教師とICT教材の関係性を再考する――ポスト現象学における『ハイブリッドな志向性』に基づいて」『神戸大学大学院人間発達環境学研究科研究紀要』16(1): 47-58.

Fricker, Miranda, 2007, Epistemic Injustice: Power and the Ethics of Knowing, Oxford University Press.(佐藤邦政監訳・飯塚理恵訳,2023,『認識的不正義――権力は知ることの倫理にどのようにかかわるのか』勁草書房.)

飯塚理恵(2024)「認識的不正義の是正」佐藤邦政・神島裕子・榊原英輔・三木那由他編『認識的不正義ハンドブック――理論から実践まで』勁草書房,58-75.

伊藤将人(2025)『移動と階級』講談社.

Kant, Immanuel, 宇都宮芳明訳,1985,『永遠平和のために』岩波書店.

Mill, John Stuart, 関口正司訳,2020,『自由論』岩波書店.

大川正彦(2026)「正義:新装版 思考のフロンテイア」岩波書店.

榊原英輔(2024)「認識的不正義の分類」佐藤邦政・神島裕子・榊原英輔・三木那由他編『認識的不正義ハンドブック――理論から実践まで』勁草書房,23-43.

Sen, Amartya, 2009, The Idea of Justice, Harvard University Press.(池本幸生訳,2011,『正義のアイデア』明石書店.)

Sheller, Mimi, 2018, Mobility Justice: The Politics of Movement in an Age of Extremes, Verso.

Shklar, Judith N., 1990, The Faces of Injustice, Yale University Press.(川上洋平・沼尾恵・松元雅和訳,2023,『不正義とは何か』岩波書店.)

Simmel, Georg, 1908, Soziologie: Untersuchungen über die Formen der Vergesellschaftung, Leipzig: Duncker & Humblot.(居安正訳,1994,『社会学――社会化の諸形式についての研究』上・下,白水社.)

Verbeek, Peter-Paul, 2011, Moralizing Technology: Understanding and Designing the Morality of Things, University of Chicago Press.(鈴木俊洋訳,2015,『技術の道徳化――事物の道徳性を理解し設計する』法政大学出版局.)

Young, Iris Marion,1990, Justice and the Politics of Difference, Princeton University Press.(飯田文雄・茢田真司・田村哲樹監訳,2020,『正義と差異の政治』法政大学出版局.)

Young, Iris Marion, 2011, Responsibility for Justice, Oxford University Press.(岡野八代・池田直子訳, 2022, 『正義への責任』岩波書店.)

*ご愛読ありがとうございました。本連載は加筆修正のうえ、書籍化されます。詳細は、後日X(@nankyokuko)などでお知らせいたします。



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